THE FIRST PRINCE OF WALES
イングランドの王、エドワード1世は1272年から1307年までの間、国を統治していました。
その在位中に彼はなんとかウェールズを征服しました。
しかし、ウェールズの首長たちは抵抗し続けました。
彼らはエドワード王ではなくウェールズ人の王子に国を治めてほしかったのです。
ある日エドワード王と王妃が滞在するウェールズの城に会いにやってきました。
ウェールズの首長たちと会った後、エドワード王の大臣は王の部屋にやったきて言いました。
「彼らはイングランドの人でなくウェールズの王子によって国を治めてもらいたいと言っています。
また、その王子はウェールズ生まれで、王の息子でなければならず、フランス語も英語も話してはならないと言っていますもう一つ。
一度も人を傷つけたことのない王子が欲しいと。」
エドワード王が返事をするのには少し時間がかかりました。
しかし、しばらく考えた末、王は大臣に言
いました。「彼らにこう伝えてくれ。彼らの望んだ者を与えよう。来週この城にくるように伝えなさいそ
うすれば彼らの望んだ王子を与えようと。」
家に帰る途中、首長たちはお互いに尋ね合いました。
「どうやって王は我々の頼んだものを与えてくれるのだろう?どこでわれわれの望んでいる理想の王子を見つけてくれるのだろう?」
「わからない。でもエドワードは誠実だし、約束を守るとみな言っている。待って様子を見よう。」と、
だれかが言いました。
翌週、首長たちと大勢の民衆が王の城の前に立って待っていました。
突然、王が二階の開いた窓から姿を現しました。彼のそばには王妃がなにか毛布にくるまれたものを抱えて立っていました。
王は手を上げて静粛を命じました。それから大きな声でこう言いました。
「ウェールズの首長と民よ、お前たちは自分たちを治める王子が欲しいと言った。
ここウェールズに生まれ、フランス語 英語も話さぬ王の息子を要求した一度も人に害を与えたことのない支配者を望んだ。
もしこのような王子を与えるなら、支配者として受け入れるか?」
「はい!受け入れます!」
群衆は叫びました。
「それではお前たちの王子を与えよう!」
王は宣言しました。
そして、王妃の腕から生まれたばかりの赤ん坊を取り上げ、みんなに見えるように抱き上げました。
「これは私の息子である。彼は王子であり、一週間前にここウェールズで生まれた。
フランス語も英語も話さないし、だれにも危害を加えたこともない。お前たちに、ウェールズの王子、エドワードを授けよ
う!」
彼は宣言しました。
「我々は彼を受け入れます!王子を受け入れます!」と、群集は叫びました。
首長たちは落胆しましたが、民衆はとても喜びました。
彼らはエドワードを初代ウェールズの王子として受け入れました。
それ以降ずっと現在に至るまで、イギリスの王位継承者はプリンス·オブ·ウェールズとして知られてきたのです。

DIANA, PRINCE OF WALES
19歳で幼稚園の教師だったダイアナ・スペンサーの人生は、プリンス·オブ·ウェールズに結婚を申し込まれたとき、急転換した。
この時から彼女は常にイギリスのみならず世界中の注目の的となった。36歳にして早急で悲劇的な死を迎えるまでは。
彼女はイングランド女王にはならなかったが、ダイアナはすでに人々の中で女王であった。
これは彼女の短い人生と愛すべき仕事の物語である。
若き日
ダイアナ·スペンサーは1961年7月1日、高貴な家に生まれた。
ウエストミンスター大寺院で行われた彼女の両親の結婚式に女王エリザベス2世が来賓として出席した。
しかし、この結婚式はダイアナがわずか6歳のときに破局を迎え離婚で終わった。
ダイアナは寄宿学校に入れられた。そこではスポーツ、特に水泳が得意だったが、勉強は得意ではなか
った。
16歳で卒業した後、ロンドンで働き始めた。
ダイアナ自身の子供時代は戟ではなかったが、彼女は小さな子供たちが大好きだった。
ロンドンの幼稚園で教えていたとき、英国皇太子で王位継承者であるチャールズに出会ったのである。
結婚式と王妃としての生活
ダイアナは、チャールズ皇太子の婚約者となったときから絶えず注目の的であった。
結婚式の日には60万人以上の人々がバッキンガム宮殿からセント·ポール大聖堂への沿道に立った。
テレビのおかげで、世界中の何百万もの人がこの現代版シンデレラの結婚式を見ることができた。
そのときダイアナはわずか20歳だった。
新しい英国皇太子妃はイギリスや世界中の学校や病院を訪ねた。
チャールズ皇太子ではなく、彼女がどこでも注目の的であった。
チャールズは気にしていないと言ったが、ダイアナは夫が快く思っていないことがわかっていたし、彼女もよくは思っていなかった。
ダイアナ妃は病気に苦しんでいる人や、死の床にある人々、社会から拒絶された人々のもとを訪れ助け
たエイズ患者たちを訪ねたときは、患者のベッドに腰掛け、握手をした彼女は言った。
「HIVを患っているからといって、その人と知り合うことが危険だということにはなりません。
だから握手したり抱いたりできるのです。彼らには本当にそれが必要なのです。」
多くの人は、エイズの人々に触れてもHIVに感染しないということをダイアナから学んだのである。
困難期
二人の息子、ウィリアムとハリーをもうけた後、ダイアナはうつ病にさいなまれたこの頃、チャールズ皇太子は昔のガールフレンドのカミラ·パーカーボウルズに会い始めていた。
王室の中で一人寂しく、ダイアナには悩みを話す相手が誰もいなかった。
もはや自分の気持を夫に打ち明けることができなかったが、子供たちのことは愛していたので、できるだけたくさんの時間を子供たちと過ごした。
自分自身が崩壊した家庭の出だったので、自分の子供たちは幸せな家庭で育てることが重要だとわかっていた。
1992年12月、チャールズ皇太子は別居することを発表し、1996年彼らは正式に離婚した後になってダイアナは友人に、それは人生で最も悲しい日だったと語った。
離婚した後でも、ダイアナは愛されていないと感じている人々に愛情を示し続けた。
パーティや式典で着た79着のドレスを売り、慈善事業のために350万ポンドをつくった。
自分が英国王妃になることはないだろうが、「人々の心の中で」王妃になりたいと言っていた。
カメラマン
ダイアナはもはや王室に属していなかったが、それでもカメラマンたちはまだ彼女の写真を撮りたがっ
た。彼女はこれが嫌でたまらなかったが、写真はしばしば彼女の仕事の助けとなった1997年1月にア
ンゴラの地雷原で、また同じ年の8月には地雷で足を失ったボスニアの子供たちと一緒に写真に写った。
これらの写真のおかげで、世界中の人々は地雷の大きな危険性についてもっと真剣に考えさせられた。
悲劇の結末
ダイアナは富豪の実業家の息子、ドディ·ファエードと休日を過ごすようになった。
彼女は自由な女性に戻ったのだ。
幸せで楽しい時間を過ごしていたが、カメラマンたちは依然としてどこへでも彼女をつけ回した。
1997年8月31日の夜、カメラマンを避けるために、ドディとダイアナはパリのレストランの裏口から出て、大きな黒い車に乗り込んだ。
しかし、気づかれずに出ることはできず、カメラマンたちから
逃げるために猛スピードで運転している途中、車が地下道の壁に激突し、運転手とドディ、そしてダイアナは命を落とした。
世界中の人々がスペンサー家、二人の若い王子、そしてチャールズ皇太子とともに、この美しいが不運なシンデレラに別れを告げた。
