FLORENCE NIGHTINGALE
統計によれば何年間もの間、看護師は日本の少女たちの中で最も人気な職業であった。
健康が心配、もしくは病院で苦しんでいる時、看護師の「⼼のこもった優しい看護(TLC)」は再び回復させてくれる。
看護師たちは病院や診療所で重要な役割を担っているにも関わらず、歴史上有名な看護師が一人しかいないのは不思議ではないだろうか?
その人はイギリス人女性のフローレンス・ナイチンゲールである。
なぜ彼女がこれほど有名で重要なのだろうか?
フローレンス·ナイチンゲールは、イタリアのフローレンス(フィレンツェ)にちなんで名付けられた。
1820年のフィレンツェで、2年にわたる新婚旅行でヨーロッパを周遊していた裕福なイギリス人夫婦の間に彼女が誕生したのである。
父親が教育に関心が高かったおかげで、フローレンスは歴史、数学、哲学、イタリア語、そして古典文学を勉強した。
そのような教育はその当時の女性には珍しいことだった。
フローレンスは特に数学と統計学が好きだった。
しかし、両親は彼女が家庭に入って伝統的な女性の役割を果たすだろうと思っていた。
彼女はそのべき知性や大いなる活力を発揮することができなかったので、やり場のない不満に、彼女には「死にたい
という以外何の望みはなかった」。
9年間ある若い男性が結婚を申し込み続けていたがフローレンスは人生を看護の仕事に捧げるのが天命だと感じていた。
フローレンスの両親はこの決心に反対していた。
その時、看護師の仕事はきちんとした教育を受けた女性にふさわしい仕事でないと考えられていた。
しかし両親の反対にもかかわらず、フローレンスはエジプトで看護師としての養成訓練を受け始め、ドイツとフランスの病院で受け続けた。
ついに1853年、ロンドンへ帰ってくると、ロンドンの病院の看護師長になった。
1854年にクリミア戦争が起こったとき、タイムズ紙がイギリス軍の野戦病院の悪状況を伝えた。
その状況を改善するために、フローレンス·ナイチンゲールは、38人の看護師のリーダーに選ばれ、コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)近くのスクタリへ派遣された。
そこの病院の悲惨な状況にショックを受け、フローレンスと看護師たちは状況を改善し負傷した兵隊たちを慰めるために、できる限りのことをした建物を掃除し、食べ物や薬を何とか調達した。
イギリス兵たちは彼女を敬愛した。しかし全般的な状況は改善されなかった。
ロンドンに戻るとすぐにフローレンスは報告耆を書き、その中で、クリミア戦争中に死亡したイギリス兵の一番の死亡原因が病院の衛生の悪さにあることを指摘した。
戦場で負傷して死ぬ兵士の10倍もの兵士が病気で死亡していたのだ。
実際、彼女がいた病院の死亡率はその地域の他のどの病院よりも高かった。
政府はこの衝撃的なレポートを発表するのを許さなかった。
クリミアの戦場を訪れたときに彼女自身も病気にかかり、90歳で死ぬまでほぼ寝たきりであった彼女はイギリスだけでなくインドにおける公衆衛生の改善を求めて、枕元から熱心に働きかけたデータを集めたり分析したりして1万4千通の手紙を薔き147冊の本や報告書を出版させた。
クリミアではイギリス兵の命を救うことにあまり成功を上げなかったが、彼女の献身的で静かな枕元での仕事は、世界中の何十
万もの命を救ったのである。

A TALE OF TWO PARACHUTES
それは私が生まれ育ったウェールズで数十年前に起こりました。
ウェールズはかつて炭坑と製鋼業で有名でした。
大きな工場は特に南西部に見られました。私の家はある大きな町の郊外にありました。
家の近くには大きな工場が一つありました。
一日中煙が高い煙突から吹き出され、空を黒くしていました。
私たち子供たちはその工場のそばの空き地でよく遊びました。
ある日、ゴムボールでキャッチボールをしていたとき、ボールが石に当たって、煙突のそばの低い建物の屋根まで跳ね上がってしまいました。
「どうしたらいいの?もう遊べないね」と、女の子の一人が泣き出しました。
この子はこういう状況になるとどうしたらいいかわからなくなるようでした。
「どうやって取るか僕知っているよ。」と、男の子の一人が言いました。その子はピーターという名前で、
他の子たちより少し大きな子でした。
「でもどうやって屋根の上に登るの?」だれかが尋ねました。
「難しくないよ。煙突のはしごを登るだけだよ。」ピーターは答えました。
「警備員に捕まらないようにね」私は言いました。
「心配ないよ、警備員はちょうど建物の反対側に行ったところだよ。それに、あんな爺さんなんて怖くないさ。」ピーターは答えました。
箱を二つ持ってきて、ピーターは大きい箱の上に小さい箱をのせました。
その上に乗り、煙突のはしごに移ってからよじ登り、建物の屋根より高いところまでのぼりました。それから、屋根に飛び降りて、ボールを拾って私たちの方に投げてよこしました。
そしてピーターはまた煙突のはしごに飛び乗りましたが、降りてくる代わりに、もっと上に登りはじめたのです。
「降りてこいよ!危なすぎるよ!」
と、私たちは叫びました。
ピーターは私たちの言うことが聞こえないようでした。彼はどんどん高く登り続けました。
すぐに警備員が建物の向こう側から出てきて、ピーターが登っていくのを見たのです。彼は唇に警笛を当てて大き
く吹きました。
「そこから降りてこい、ばか者!」と、彼は怒った声で叫びました。
このときにはピーターはもう煙突のてっぺんに着いていました。
彼は周囲を見回してから、下を見て私
たちに手を振りました。私たちも手を振り返しました,それからピーターは降り始めました。下まで降り
るのに3分ぐらいかかりました。はしごの一番下に着くとピーターは箱の上に飛び降りて、年老いた警備
員に捕まる前に逃げました。
私たちは彼のあとを追いかけ、やっと追いついたときに尋ねました。「どうだった?」
「今まで最高にわくわくするような経験だったよ。はしごのてっぺんからの眺めはすごいよ。
みんながアリみたいに見えたよ。
そして遠くには海に船が浮かんでいるのが見えたんだ。」と、ピーターは答えました。
それを聞いたとたん、私は自分もいつかあの煙突のはしごを登るだろうとわかっていました。
そのとき私はわずか9歳でしたし、海を見たことがなかったのです。
「僕もいつかあの煙突のはしごを登るよ。」私はスージーに言いました。
彼女は私の家の通り向かいに住んでいました
「そんなことしちゃいけないわ。それに、あなたはピーターのやったことができるほど勇気がないわよ。」彼女は言いました。
もしかすると、彼女に言うべきではなかったかもしれません。
なぜならそのときから彼女はしばしば「怖くてあの煙突に登れないんでしょう。」と言って、私をからかったのです。
しかし、スージーが私をからかえばから かうほど、私の決意は強くなりました。
正直に言うと、やはり怖かったので登りたくなかったのです。
落ちるのではないかと怖かったのです。だから私はある工夫を思いつきました。
傘でパラシュートを作ろうと思ったのです。
私は傘を一本用意して、傘の骨と取っ手を紐でつなぎました。
閉じたときには普通の傘のようでしたが、開くと簡単なパラシュートのように見えました。
それを持って何個か重ねた箱の上から飛び降りる練習をしました。それからその傘を工場に近くに隠しておきま
した。
それからある日曜日、スージーと私と他の数人の子供たちがゲームをした後休んでいたとき、スージー
がこう言いました。
「警備員は建物の反対側に今行ったところだし、今日は煙突から煙りも出ていないわ。煙突に登るチャンスよ。それとも怖くて登れないの?」
言うまでもなく、私は登りたくありませんでしたが、他に何と言っていいのかわからなかったので、笑って言いました。
「いいさ。登ってみようじゃないか。善は急げだ」
私はパラシュートもどきを取ってきて、肩から下げました。
それから二つ重ねた箱の上に乗り、そして煙突のはしごに移ってから登り始めました。
私はどんどん高く登って行きましたが、不思議なことに高く登れば登るほど、怖くなっていったのです。
下にいる他の子供たちの声援が聞こえました。
それを聞くと私は誇らしい気持ちになりました。
てっぺんに着くのに5分くらいかかったと思います。
実を言うと、怖くてゆっくり慎重に登ったのです。
煙突はほんの70~80フィート(約23m)の高さでしたが、私には70~80マイル(約120km)に思えました。
てっぺんに着くと私は下を見下ろしました。
一わぁすごい!-ちょうどピーターが言っていたように、みんながアリのように見えました。
私は手を振り、みんなは手を振り返しました。
周りを見回すと、全ての家や工場の屋根が見え、遠くにはピーターが言ったように、海が見えました。
はるか遠くに船が数隻行くのが見えましたそれらはプラモデルのようでした。
なんて美しい光景だ!
そして、顔に吹きつける冷たい風を感じることもまた、何とぞくぞくすることだったか!
突然、警備員の笛の音が聞こえ、私は降り始めました。登るよりも降りるほうが困難でした。
しかし
私は得意のあまり、危険だということを忘れていました。
他の子たちの声援が私を励ましてくれました。
特に一人の子の声が私の耳に届きました。「これは本当に彼女を感動させるぞ。」と、私は自分自身に言っ
て、片手ではしごにぶら下がり、もう一方の手でなんとかパラシュートもどきを開きました。それから、
両手で取っ手を握り、「これはどうだい、スージー?」と叫びながら飛び降りたのです。
最初はゆっくりと降りていくようでしたが、下へ行くほど、どんどん落ちるのが速くなるようでした。
突然、傘の骨の一本が低い建物の屋根に当たりました。私は壁で頭を打ち、気を失いました。私が覚えて
いるのはそれだけで、気がついたとき、私は病院で寝ていました。動けませんでした。頭が痛かった。右の肩も痛かった。肋
骨が三本折れていました。右足も骨折していましたスージーがそこにいて、大きな目で私を見ていまし
彼女は「だいじょうぶ?」と、小声で尋ねました。
痛かったけれど、私はなんとか笑顔で「どうだった、スージー?」と言いました。
「あんなこと、すべきじゃなかったわ。でもあんな勇敢なことは今まで見たことないわ。」彼女は言いました。
この言葉は私の将来に大きな意味を持つことになったのです。
第二次世界大戦が始まったとき、私は落下傘部隊に入り、ドイツ西部の空爆に参加しました。
私たちの飛行機が撃墜されたとき、仲間たちと私は飛び出し、パラシュートで降下しました。
無事に野原に着陸した後、仲間の一人がこう言いました。
「降下中に君は何度も『これはどうだい、スージー?』と繰り返していたけど、『スージー』ってだれだい?それに『これ』って何だったんだい?」
「スージーは妻だよ。」と、私は答えました。
「それじゃ『これ』って何だったんだい?」と、仲間が再び尋ねました。
「最初のパラシュート降下のことさ。」と、私は答えました。