Section1 1927年8月23日に何が起こったのでしょうか?
私はパートロメオ・ヴァンゼッティの友人でした。おそらく彼のただ1人のアメリカ人の友人だったでしよう。
1927年8月のある日、私は獄中のヴァンゼッティを訪れました。
しばらく話をし、ヴァンゼッティに別れを告げたあと、私は刑務所をあとにしました。
彼にはニ度と会えない運命でした。数日後, 1927年8月23日,パートロメオ・ヴァンゼッティと彼の友人ニコラ・サッコは強盗および殺人の罪で処刑されたのです。
Section2 なぜアメリカ合衆国政府はヴァンゼッティとサッコを厳重に監視していたのでしょうか?
私が初めてヴァンゼッティに会ったのは,彼がイタリアからアメリカ合衆国に移住した時でした。
それは1908年頃で、私たちは2人とも20歳でした。サッコもまたイタリアからの移民でした。サッコは靴職人で,ヴァンゼッティは魚を売っていました。どちらも稼ぎはたいしてありませんでした。
いろいろな点から考えてみると,当時,貧しい移民たちにとって生活は過酷なものでした。誰にとっても生活は厳しく,第一次世界大戦後にはさらに厳しい時代がやって来つつありました。得られる職はほとんどなく,そのための競争は激しいものでした。アメリカ人の多くは,移民が自分たちの仕事を奪いつつあるのではないかと恐れていたのです。彼らは外国からの移民を止めたいと思っていました。
人々はまた,無政府主義,すなわち法律や政府は必要ないという政治的な考えも恐れていました。
アメリカ合衆国政府は,無政府主義者は危険であるとみなしました。
ヴァンゼッティとサッコは無政府主義者でした。政府当局は彼らを厳重に監視してきたに違いありません。
Section3 サウス・プレイントリーの靴工場の殺人事件の後に何が起こったのでしょうか?
ある晩,ヴァンゼッティと私はマサチューセッツ州サウス・プレイントリーの町の近くでタ食をとりました。私がそれを覚えているのは,ちょうど私たちがタ食をとった数日後の1920年4月15日に,町の靴工場のための全給料を運んでいた2人の男性が襲われて盤ち殺されたからです。男性たちが運んでいた15, 776ドル51セントは盗まれました。2人の強盗は逃亡しました。
私たちの夕食から間もなぐそして靴工場の殺人事件のあとに.私の友人ヴァンゼッティと彼の友人サッコは逮捕されました。サウス・プレイントリー事件のあと.警察は私の友人たちのような移民の人たちをさらに厳重に監視していたのです。警察はヴァンゼッティとサッコがサウス・プレイントリー事件と関係はないと考えていて,彼らは1919年12月にプリッジウォーターの町で起きた強盗未遂事件で起訴されたのです。
サッコは法廷で,自分がその日はずっと備いていたと証明することができました。たくさんの目撃者たちも,ヴァンゼッティはずっと仕事をしていたと断言しました。しかしながら,起訴された者と同じように,目撃者たちはイタリアからの移民でした。彼らの多くは英語をうまく話せませんでした。法廷は彼らにたくさんの複雑な質問に答えさせました。彼らは困惑しました。彼らは笑い者にさえされました。16人もの目撃者たちが,ヴァンゼッティは犯罪の当日にはどこか他の場所にいたと言いましたが,それでもなお彼は有罪を宣告されました。
Section4 どのようにヴァンゼッティとサッコはより深刻な事態に巻き込まれたのでしょうか。
ところが,私の友人の災難は始まったばかりでした。さらに深刻な問題が彼に降りかかりつつあったのです。次に,彼とサッコはサウス・プレイントリーで起きた強盗と殺人で起訴されました。ヴァンゼッティのために私ができることは何もありませんでしたが,私は裁判を見に行きました。その強盗事件を見たと言う目撃者が何人かいましたが,彼らは強盗たちの顔は見ていなかったのです。それから靴工場の帳簿係でメアリー・スプレインという名前の女性が尋問されました。
「強盗事件の日にあなたはどこにいましたか?」彼らは彼女にたずねました。
「私は仕事をしていました」と彼女は答えました。
「あなたはどこで仕事をしていますか?」
「サウス・プレイントリー靴工場です。」
「それであなたは強盗事件を目撃しましたか?」
「私は強盗事件は見ませんでしたが,強盗たちの自動車と,その中にいた男たちのうち1人を見ました。」
「あなたはその男を特定できますか?彼はこの法廷の中にいますか?」「ええ。あの男に見覚えがあります。」彼女はサッコを指さしました。
これは興味深いことでした。というのしどうやら,強盗事件の直後にスプレインさんが警察に話した時には,彼女はその自動車をほんのちらっとしか見なかったと言ったらしいからです。そこで被告側の弁護士が彼女にたずねました,
「警察と話をした時,あなたは自動車の中の男が誰かわからないと言いました。そうですね?」
「ええと,はい。」
「しかし突然今はその男が誰かわかるのですか?
「あの,ええと,・・はい。」
Section5 ヴァンゼッティとサッコが殺人を犯したという何らかの明らかな証拠があったのでしょうか?
もう1つの重要な証拠は縁なし報でした。殺人事件が起こった場所の近くで1つの縁なし帽が見つかっていたのです。それはサッコの帽子だと言われました。しかしサッコが法廷でその帽子をかぶってみると,それは彼には小さすぎたのです!驚いたことに,検察官はこの事実を無視して「サッコの帽子」について話し続けました。陪審員団がその帽子は小さすぎるとわかっても,彼らは「サッコの帽子」という言い回しを何度も繰り返し聞いたのです。
次に検察側は,ジェームズ・ボストックという名前の目撃者に一彼は時々靴工場で働
いくつか質問をしました。
「あなたは弾丸を撃った男たちを見ましたか?」と彼らは彼にたずねました。
「まともに見たわけではありません」と彼は答えました。「しかし,彼らは外国人のように見えました。」
「どういうことですか?」
「ええと,彼らはどちらかというとイタリア人のように見えました。」
検察側は彼に,ヴァンゼッティとサッコに見覚えがあるかたずねましたが,彼はないと言いました。
ジェームズ・ポストックは殺人現場から何発かの銃弾を拾ってきていました。その時, 私はヴァンゼッティが銃を持っていることを知りました。彼の銃が法廷に特ち込まれ,彼らは銃弾を比較しました。それらは違っていたのです!
Section6 陪審員団はヴァンゼッティとサッコについてどのような判決に至ったのでしょうか?
ヴァンゼッティとサッコの裁判はおよそ7週間続きましたが,ようやく陪審員団が審するために法廷を退席しました。彼らの評決を待っている間,私は友人が無罪になるだろうと確信していました。陪審員団は3時間協しました。その後,彼らは食事をとりました。それから彼らは法廷に戻ってきました。私は目を閉じて待ちました。私はお祈りを唱えていました。
しかし、陪審員団は彼らが2人とも有罪であると決めていたのです。私は衝撃を受けました。世界中の,あらゆる国籍や政治的信念を持つ人々も同じでした。
2人が有罪判決を受けた時,アメリカ合衆国全土で,またヨーロッパでもデモが起こりました。
私は、彼らを処刑する判決は移民としての彼らに対する偏見に基づくものであり、彼らの政治的な考えによるものだと人々がロにするのを聞きました。
人々はデモを行って判決に抗畿し、さらなる調査や法廷でもっと時間を費やすことを求めました。
しかし何も変わることはなく、1927年8月23日に私の友人は電気いすに送られたのです。
Section7 なぜヴァンゼッティとサッコの処刑に関していまだに多くの論争があるのでしょうか?
処刑後、男たちの罪についての論は続きました。
彼らが有罪だと言う人もいれば、 無実だと言う人もいました。
しかし,どちらにしても決定的な証拠はなかったのです。結局彼らは罪を犯したという確かな証拠がないまま処刑されたのです。
その時から、アメリカ合衆国は変化を遂げてきました。マサチューセッツ州は過ちがあったことを認めてはいませんが州当局が彼らの命日を「ヴァンゼッティとサッコ追悼記念日」に指定しようと考えていると聞きました。
このことから判断すると,私は州当局ですら2人の男たちが処刑されるべきではなかったと確信していると思うのです。私たちはいったい真実を知ることになるのでしようか。