NEW TREASURE STAGE5 LESSON10 The problem of Consciousness 和訳

Section1

意識は今日における科学が直面している最大の謎と言われています。

この謎は哲学自体と同じくらい古く,これまで満足いく解明がなされてきませんでした。ーーそれはどんな形にしろ,心身の問題;つまり二元論という馴染みある問題なのです。

 

問題は,こういうことです。何でもあなたの好きなものを手に取って下さい。読んでいてペンや本,またはグラス1杯のワインがたまたま手元にあればそれを取り上げるかもしれませんね(私はこれを書いていてそうします)。次にそれをよく見てみましょう。これが現実の物質的世界に存在し,時間と空間の中にあり,また誰にでも当てはまる,さまざまな特性や法則を持つ本物の物体である,と信じないことは不可能に思われます。結局のところ,そのグラス1杯のワインは予想できる反応を示します。たとえば,もしあなたが手を放したら,ガチャンと音をたてて床に落ち,あたりを汚すでしょう。また,もし誰か他の人に手渡したら,彼らは「ありがとう」と言って,これは2005年もののクラレットの1杯で,タンニンを少量含んで深みがあり果物の風味がする,ということに同意するでしょう。このようなことはどれも,実在のワインを含んだ物質的世界を,想定せずに説明するのは難しいのです。

 

ところで今度はあなた自身の経験に移りましょう。グラスを光にかざして,深くきらめく赤い色がガラスを通して現れるのを楽しんでください。それを鼻腔にまで持ち上げ,独特の入り混じった芳香を嗅ぎましよう。それを味わってください。これらの特質はあなたが,しかもあなただけが,あなた自身の内なる心の中で経験することです。そのワインが友人にとってどのような味がするか,あるいは匂いがするか,そのほかならぬ赤い色があなたに見えているように友人に見えるかどうか,またそれどころか友人が持つ赤い色の知覚はむしろあなたが持つ青い色の知覚に近いのかどうか(昔ながらの哲学的な難問を持ち出すとすればですが),あなたにはわかるすべがありません。こうしたことのどれに関しても,個人の心的世界を想定することなく考えるのは容易ではないのです。

 

Section2

哲学者たちは,これらの個人的な感覚的特質(赤ワインの赤い色,香りや肌に触れたグラスの手触り)をクオリアと言い表します。クオリアの存在を認めない哲学者らもいますが,彼らでさえ,私たちが言う「意識」とは主観的体験であることでは意見が一致しています。1970年代に有名な論文が「コウモリであることはどのようなことか?」という疑問を投げかけました。その答えは,私たちはそれがどのようなことか実際にはわからないけれども,もしコウモリであることがこういうことだという何かがあるなら,コウモリには意識があると認めることができる,というものです。もしコウモリ(もしくは石でも赤ん坊でも,あるいはグラス,杯のワインでも)であることがこういうことだというのが何もないなら,その場合コウモリには意識がないということになります。意識があるということは,主観的体験をするということです。 自分には意識がある, と言うことは,つまり自分であるというのはこれだという何かがある, ということなのです。

 

Section3

そうなると実のところ,私たちは2つのまったく異なる種類のもの,すなわち世にある物質的な物と主観的体験とを押しつけられてしまうわけです。それらはとにかく調和しません。 とても違っているように思われます。

 

あなたは,その2つは異なっていること, さらに世の中は2つの根本的に違う種類のものでまさに成り立っているのである, ということを受け入れたいかもしれません。

もしそうなら, 同じ考えの人は他にもいるでしょう。

なるほど二元論を信じることは,世界についての人間の考え方の自然な状態であるように思われます。霊や魂についての概念や超自然的な心理的領域は,何千年も前にさかのぼった歴史的文書の中に見られますし,二元論は今日,地球上で生き残っている大部分の社会で主流を占めています。

裕福で教養のある西洋でさえ,一般の人々を対象にした調査では,大部分の人々が二元論者であることが示されています。

言い換えれば,人々は心と体は別のものである,すなわち単なる物質的な外観をはるかに超えたところにある内なる自分というものを持っている, と考えているのです。

とても興味深い話です。

 

多くの人々はまた, 自分たちの心は体に影響を与えうると考えています。

これは理にかなっているように思われますが,実のところこれは,その2つは別々のものであるという意味を含んでいます。

したがってそれは二元論の隠れた形なのです。

そこから多くの人々が, 自分たちの霊あるいは魂は,物質的な肉体の死後も存在し続けることができると信じています。 この種の二元論は, 「反精神的な」科学的見地と対立して, 「精神的な」世界のとらえ方として売りこまれることがよくあります。それは数えきれないほどのニューエイジ運動や「精神と魂」をうたった書籍や雑誌で販売が促進されていて,無情だと思われている科学の物質主義と対立しています。

しかし,精神的であると主張することが(人を)精神的なものにしてくれるわけではなく, しかもこのような利益の上がる世界観は, この問題の難しさを科学や禅の両方が試みるのと同じように解明しようとすることはもちろん認めることさえめったにしないのです。

 

Section4

解明が失敗に終わったもっとも有名なものは, 17世紀のフランスの哲学者,ルネ.デカルトによって提唱された「デカルトの物心二元論」です。

彼は,物体とは物質的材料で作られた賢い機械であると考えました。 この中で,彼はその時代をかなり先行していたものの, 自由意志と意識について説明できなかったので,心は物体とは完全に異なったものであり,精神的な,思考のできる,物質的材料ではないものからできていると結論づけました。

これまで解明されたことの決してない,デカルトの物心二元論が持つ長きにわたる問題は, もしこれらの2つのものが実際にそれほど異なっているなら,互いに作用し合うことはできない, というものです。

さらに, もし作用し合えないならば,その場合その理論は,説明されなければならないこと,すなわち,自分の心が物質的な目や耳で感知するものを知覚し, 自分の思考が自分の体の行動を引き起こすように見えることを,説明できなくなります。

デカルトはその2つは脳の松果体で相互に作用し合うと考えましたが,どのように作用し合うのかは言い表せませんでした。

同様にそれは,他の誰もできませんでした。ですから二元論では解決になりません。責任逃れの言い訳なのです。

 

あなたはこの困難な問題からもがいて逃れたいと思うかもしれませんし,実際に逃れようとするかもしれません。

それには進むべき2つの明らかな方向があり, どちらも十分に考察されてきました。

一方では,あなたは観念論を試してみるかもしれません。それは,物質的な世界が別にあるのではなく,宇宙にあるすべてのものは思考,あるいは観念か意識でできているという考え方です。

しかしそうなると,何が物質的世界に確固たる性質を与えているのでしょうか, さらに言うならどうして私たちはみな, ワイングラスが床に落ちて割れたとか,重さが27グラムあり,鉛クリスタルガラスでできている,ということに異議を唱えないのでしょうか。他方で, あなたは唯物論を試すことがあるかもしれません。

それは,心的世界が別にあるのではなく,宇宙にあるすべてのものは物質でできているという考え方です。科学者たちは大多数が(全部ではないものの)唯物論者であると主張していますが,そうなると私たちの主観的体験はどのようなものになり得るのでしょうか。 このワインの素晴らしい風味は, どのようにして物質的なものになり得るのでしょうか.

 

Section5

これらのことは私たちに心身の問題の現代版 これは意識の「難問」 と呼ばれますに向かわせます。

それはすなわち,脳内で起こる客観的かつ物理的な作用は, どのように主観的体験を引き起こすことができるか, ということです。神経科学者たちのこの客観的な脳内作用の解明は,著しく進展しています。それには,脳の断層写真,埋め込み電極,コンピューター模擬実験, またその他脳がどのように機能するかを調査するあらゆる種類の方法を用いています。

私たちは神経細胞の電気的発火,シナプスにおける化学的反応,情報処理,そして視覚,聴覚,記憶の仕組みを測定することができます。情報がどのようにさまざまな感覚を通って流れ込むのか, さらに反応がどのように統合されて行動が起こされるのかがわかるのです。

 

ところで,私と私の意識的体験はどうなのでしょうか。

この入力や出力の統合システムと,多数の並列処理システムのどこに私は納まっているのでしょうか。

不思議なのは, さまざまな感覚を通して入ってくるものを経験し,それに応じて何をするか決定する時に,自分がこうした活動すべての中心にいるかのように感じることですが, その時には実のところ脳は自分を必要としていないように思われることです。

自分が存在することのできそうな中心的な場所や作用はなく,脳はいかなる管理者や決定者,あるいは内なる経験者がいなくても,それ自身が行うすべてのことをやる能力がありそうです。

実のところ私たちが,脳がどのように機能するかについて学べば学ぶほど, ますます何かが置き去りにされているように思われるのです。何よりも私たちが気にかけているまさにそのこと,すなわち「意識そのもの」が。

 

Section6

本当にそんなものがあるのでしょうか。

この疑問は,意識研究の分野を他の何よりもきっぱりと分割しています。

今日のほぼすべての科学者や哲学者は,原則として二元論を認めていませんが,依然として多くの人々が,私たちは意識に関する特別な説明を必要としており,さらに学習や記憶,あるいは知覚の解明は十分ではない,と考えています。

一方,私たちがあらゆる物質的作用を解明する時には,未解決のものは何もなくなるだろう,すなわち意識は説明されていることになるだろうと確信している人々もいて,彼らは最初に挙げた一団の人々を隠れた二元論者だと非難します。

それだから行き詰まりはいっこうに消えないのです。