Section1
ソマリアはアフリカの国で、テキサス州に近い大きさで,大陸の最東にあるいわゆるアフリカの角に位置しています。
この国は主に砂漠で,北部は適温になることがあるが,その他地域は不定期に雨が降る高温な気候です。
ここは1990年代初頭からずっと内戦状態にある非常に貧しい国です。
絶え間ない暴力の結果,他国へと逃れるソマリア人の難民は60万人をはるかに超えてきており,一方でさらなる140 万人は家を離れることを余儀なくされながらも, ソマリアに残るよりほかに仕方がないのです。
これらの「国内避難民」は行く場所もなく政府の支援もない中で極度の貧困生活を送っており, しかもその人数は日々増え続けています。
ほとんどの人が飢餓に苦しんでいます。
結核(TB) , ヒト免疫不全ウイルス(HIV)による後天性免疫不全症候群(AIDS)などの重篤な病気に苦しむ人が多くいます。
極端に暴力的で予想できない国情のため,国際社会が持続的かつ信頼できる援助を提供することはほぼ不可能なのです。
internally:内部の displace:立ち退かせる nowhere:どこにも extreme:極度の tuberculosis:結核
unpredictable:予期せぬ reliable:信頼できる assistance:援助
Section2
しかし国際支援機関が失敗したのに対し、わずか一人の女性が成功しました。
イタリア出身のアナレナ・ トネリー医師は, ソマリアの難民たちや避難民,他にも貧しく病気にかかった人々などの中で33年間働きました。
彼女は医学博士ではなく法学博士で、法学はイタリアで若い時に勉強しました。
彼女は最初、27歳の時にケニアで教師として働くためにアフリカにやって来ましたが,すぐに自分の周囲で遭遇した貧しく苦しんでいる人々の世話にかかわるようになりました。
そしてその人々の多くは隣国ソマリアからの難民でした。
彼女はとりわけ,結核で苦しむ人々の窮状に心を動かされました。
結核は非常に伝染性のある病気です。
治療はできますが,ケニアでは清浄水や十分な食料が不足し、人々が密集して住んでいるので, この病気が何千人もの人々の命を奪っていました。
ほとんどの患者が感染するのではないかという恐れのため社会から拒否され、治療が受けられなかったので,状況はいっそう悪化しました。
トネリ医師はこうした人々を助ける決心をし,最初はケニアで, そしてのちにヨーロッパで,結核や熱帯性疾患を治療する資格を得ることに取りかかったのです。
彼女は1986年にアフリカ,今度はソマリアに,戻りました。そこで国の北西部の辺境の地に位置するボラマという町に,病床数200の病院を創設しました。
200人の入院患者たちは言うにおよばず, 日々助けを求めてやってくる新たな200人ほどの患者たちを,病院は治療しました。それらの人々の多くは帰還難民で,そのうち大勢が結核や, トネリ医師がこれも熱心に治療に努めたHIVによるエイズなど, さらにその他の病気も患っていました。
驚いたことにトネリー医師は,いずれの国際機関からの支援もなしで,自分ができるところならどこででも資金を集めて, こうしたことをすべて完全に1人で成し遂げたのです。
treatment:扱い set about:決心する qualification:資格
north-west:北西 or so:かそこら fund:資金

アフリカ北東部に位置するソマリア

ソマリアの窮状

アナレナ・ トネリー
Section3
もしソマリアにいるトネリ医師を訪ねれば、貧しい中にある1人の女性を見つけ、彼女を難民自身と間違えたかもしれません。
彼女は何事にも自分が世話をする人々と自分を切り離してほしくなく、そのことが常に彼女が1人で行動していた主な理由でした。
彼女は患者たちとともに生活し,同じ食べ物を食べ,彼らと同じくらい貧しかったのです。
2組の衣服と靴のほか何も持っておらず, しかもそれらは病院の職員から彼女に贈られたものでした。
彼女の結核患者の大部分は,感染を恐れるゆえに家族や社会から切り離されてしまっていましたが, トネリー医師が彼らの家族や友人となりました。
自ら貧困を課した自身の人生についてたずねられると「決して犠牲などありません。純粋な幸せですよ。 」 と彼女はよく笑って言ったものでした。
彼女はこれをいたって簡単に「結核の患者たちに会うやいなや,私は彼らに心を奪われ,それはずっと変わらなかったのです。 」 と説明しました。
病院での長い毎日は7時に始まり,どんなに早くても真夜中まで終わらなかったものでした。
彼女は絶えず忙しかったにもかかわらず,いつも時間を見つけては, トネリー医師はどんな病気でも診療してくれることを知って彼女のもとを訪れる,愛しい患者たちと過ごしました。
彼女の病院を訪れる人は,彼女が自分の患者たちと一緒にいるのにいつも出くわしたものです。
彼女は彼らの困りごとに耳を傾け,なぐさめ, あるいはおそらく冗談を言い合っていて,それらはすべて言うまでもなく, ソマリ語によってでした。
彼女はソマリ語を流暢に話したのです。
子供たちは彼女を「おばあちゃん」 と呼び,大人たちは彼女を何か天使と同じもののように見ていました。
彼女の手によって自分たちが回復したのは「奇跡」だと明言したのは, 1人だけではありませんでした。
beloved:愛しい akin:同族の angel: 天使 recovery:回復
Section4
トネリー医師は社会の弱者を愛しましたが,特に強者からは常に愛を返されたわけではありませんでした。
絶望的なほどの貧困と暴力の中に1人で暮らしていると,外国人の援助活動家としての立場にいたために,彼女は攻撃されやすい対象でした。
外国人たちは襲われることが多く,ある時トネリー医師は強盗に遭い,殴られました。 1度は,彼女は誘拐さえされました。
外国の友人たちが,彼女の仕事を助けようと資金や物資を送った時には,それらを自分たちのものにしたい地元の役人たちからの絶え間ない脅迫にさらされました。
どれほど一生懸命自分の患者たちのようになろうとしても,彼女は外国人のままであり,女性だから,違っているから,そして社会が助ける価値がないと判断した人々を助けるから, という理由で彼女に対して腹を立てる人もいたのです。
2003年10月, これらのことあるいは別の理由で彼女を憎む何者かが’病院で彼女を射殺しました。彼女は60歳でした。
Section5
アフリカにいた長い年月の間,トネリー医師は自分が愛し,世話をした人々とできる限り寄り添おうとしました。
「私はいつも身をひそめたままでいようとしましたし,世間に知れ渡ることを拒絶してきました。」と,かつて彼女は語りました。
認められることを求めなかったうえ,名声は彼女が人生を捧げてきた貧しい人々から自分を切り離してしまうだろうと感じていたのです。
ところが亡くなる数カ月前に彼女は,難民のために働いてきた人々に授与される国際的な賞,ナンセン難民賞を受け取ることの承諾をしたのです。
この賞を受け取るのは,ソマリアの難民や国内避難民たちの苦境が,世界から忘れられかけていると感じているからだ,と彼女は説明しました。
彼女はこの賞によって世間に知れ渡ることはどんなことでも,これらの人々を知ってもらえることになるのを望んだのです。しかし,彼女はまた,自分が考えているのはソマリアの貧しい人々だけではなく,世界中の4千3百万人の難民や避難民であると表明しました。
「もしも明日,私がソマリアを去らなければならないとしたら,どこか他の場所で苦しむ人々を助けるつもりです。世界は苦しむ人々であふれているのです。」と彼女はいつもの優しく,愛情の込もった言い方で言いました。