FROM COUNTRY TO COUNTRY
あなたが典型的な日本のものに名前を上げるなら何を選ぶだろうか?おそらく、着物や寿司、アニメや相撲などの物を言うだろう。
もしくは、もしかしたら労働倫理や礼儀の重視、年齢による上下関係などのより抽象的なものをいくつか取り上げるだろう。
国によって異なるマナーや風習に関しては、しばしばそれを描写するのが難しく、それに慣れていない人をよく驚かせる。
初めて日本に来た時のルークの経験は異なるマナーと風習のいい例だ。
ルークが日本に来た時、彼は日本語を三年勉強してきて最終的にそれを使う機会を得たため、わくわくした。
しかし、到着時に恥ずかしい間違いをした。まず、彼がホストファミリーの親に会った時、彼らにハグをお願いしたが、ハグをする代わりに、握手をした。ルークは毅然と握手したが、ホストファミリーの両親はそうはしなかった。
彼らが成田空港を通って歩く時、ルークは大きな声でフライトについて話したが、ホストファミリーの両親はあまり返事をしなかった。
ルークは時差ボケでそんな大声で話しているのが自分だけだと気づかなかった。
13時間飛行機に乗っていたため、歯を洗う機会がなかったため、代わりにガムを噛むことに決めた
そのあと、ホストファミリーの両親は最初に人に会う時にこんなことをするのは失礼だと考えていた、と彼は気づいた。
ルークはとても長い時間飛行機に乗っていたと知り、ホストファザーは立ち寄って軽く食べるように提案した。(彼らは時間がそんなになかったのだが)
ルークは和食を食べみたかったため、なにかを食べるように提案してくれたことに感謝し、元気にはいと返事をした。
ルークがこの提案を受け入れるとは彼は本当は想定していなかったため、ホストファザーは驚いたようにみえた。
彼らはまだ東京に車で行かなければならず、それには少なくとも2時間かかる。
ルークは少しまちがいのあるもののみんなのボディーランゲージを理解することができ、そしてファストフード店を通り過ぎた。
そのおかげで1日使うことができた。
「それかちょっと何かつまみに行ってもいい。」
彼はホストファミリーの両親に言った。
彼らはにっこりしてほっとした様子だった。
ルークは山盛りのフライドポテトを買うもホストファミリーの両親は空港を歩いてるあいだ彼がフライドポテト食べるのを見てショックを受けた。食べ歩きだ!
しかしルークは単に車に乗る前にフライドポテトを食べ終えるべきだと考えていた。
中で食べカスをこぼしたくなかったのだ。
彼らは車に乗ったが、ルークはどこに座るべきか迷った。彼は乗るのに躊躇してホストファミリーの両親が前の席に乗った時その左側で突っ立っていた。
彼の国ではお客さんは普通は最初に車に乗り、前の席に座るため、彼は少し腹が立った。
ルークのホストファミリーの両親は、彼らからすれば、ルークは少し昼寝をしたいだろうし、後部座席のほうが昼寝するのによりよいだろうと考えた。
誰も何も言わなかったし、さらなる文化的冒険に向かって道を進めその場を後にしたが。
よくある殆どの文化的な誤解を引き起こすのは間違った知識で、間違った知識はよく不快な思いをさせる。
例えば、日本人の少女が日本じゃない所から来た誰かが着飾ってると考え、彼女は「あなた、かわいいわね」と言うかもしれない。
しかし他の国では「かわいい」なんて言葉はあまり使われないし、赤ちゃんやペットに対してのみ使うのが普通だ。
多くの外国人は「なぜかわいいと言ううんだろう。私が子供っぽみえるのかしら?」と考えるかもしれない。
しかし日本ではかわいいという言葉は嬉しいポジティブな台詞として使われる。
そのためそれを理解して、文化的な誤解は避けられる。
解決策は単純に他の人の風習ついて学ぶことだ。
理解は快適度を増し、「カルチャーショック」を減らす。
文化的障壁に加え、言語の問題もある。
2つの言語の間には文法や語彙以上に考慮すべきことがある。
言葉だけではない、人々の考え方が違うのだ。
外国語を学ぶことは外国の世界に入ることを意味し、快適ではない可能性がある。
日本人の英語話者は、「よろしくお願いします」や「お疲れ様です」などのフレーズを使えないとき、よく歯がゆく感じる。
彼らは「Take it easy(気軽にいけよ)」や「Good Luck!(頑張って)」などの英語のフレーズを耳にする時も気持ち悪い感じがする。
単純に何かには翻訳することはできない。この課題は新しい言葉を学ぶ以上にはるかに問題である。
本当の課題とは新しい世界に入っていくことなのだから。
A NOBEL PRIZE FOR LOVE
あなたはお隣さんについて知っているだろうか?文化や背景の違いを理由に他のの人を無視すれば、愛や友情の大切な機会を失うことになる。
有名な人がかつて言ったように、「あなたの隣人について調べなさい。あなたは彼らはだれであるか知っているだろうか?」
これを言った人はアグネス・バヤジウだが、おそらくあなたたちは別名のマザー・テレサのほうを知っているだろう。
マザー・テレサは20世紀のおける有名で尊敬される人の一人だ。多くの人たちが刺激を受けてきた、この小さな女性は偉大なる聖人として扱われている。
インドでの貧民に対する彼女の功績は多くの人々に、この偉大なる技術の発展の時代においても未だ貧困に生きる何百万の人々のためになされなけでばならないことが多くある、と気づかせた。
マザー・テレサはヨーロッパ地域のバルカンで生まれ、アイルランドでの訓練を完了したのち、彼女はインドの学校で教鞭をとった。
カルカッタの彼女の周りの極貧に気づいた彼女は、「貧困の中の最貧困層」を助けるために自分の人生を捧げた。
彼女は人種や肌の色、宗教に関わらず、特に死に瀕していたり病気にかかっているような遺棄児を助けることを強く望んだ。
マザー・テレサはミッショナリーズ・オブ・チャリティ(神の愛の宣教者会)として知られる修道女の教団を設立した。
彼女たちの目的は遺棄されたり、重病であるため路上で死ぬまで放置されてきた人々のために居場所を提供することだ。
その教団への参加の最初の何人かは、彼女自身が教えていた生徒だった。
この教団のメンバーたちは今や世界中で見かけることができる。
1990年代後半に彼女が亡くなって以来、マザー・テレサの囲碁とを続けてきた。
このシスターたちは死に瀕して街の路上に遺棄された人々を拾い上げ、彼らのためにできることをやった。
シスターたちの助ける人々の多くが、服や家が必要なのと同様に愛されていることを感じる必要があると、マザー・テレサは信じていた。
彼女は必要とされていないと感じることは世の中で最も悪しきことだと信じていた。
彼女自身が言うように「最も邪悪なことは愛に欠け、隣人に興味を持ち気にかけることを欠くことだ。」
マザー・テレサは仕事の中で多くの障壁を乗り越えなければならなかった。
その障壁のいくつかは文化的なものだ。
彼女自身、東ヨーロッパからインドに至るまで、多くの言語を学び多くの文化を獲得しなければならなかった。
最終的に彼女はインド市民になり、教団の制服としてインドのサリを着て、いくつものインドの言語をはなした。
しかし、貧民を介抱する外国人がいることはインド人にとって異様でありやや恥ずかしいことであった。マザー・テレサをよそ者として考えるインド人もいたが、マザー・テレサは自分もインド人であると常に主張いていた。
もちろん、そこでの問題の一つにマザー・テレサがカトリックの修道女であることであった。
インドはヒンデュー教徒、イスラム教徒、ジャイナ教徒が混ざり合った国であったが、カトリック宗派は比較的知られていなかった。
宗教、言語、食べ物や服までも異なることは、深刻な文化誤謬を引き起こしうる。
しかし、これらの違いは私たちの世界をより多様で魅力的なものにする。
マザー・テレサは文化的相違によって自分の心がやるべきだと語ることをやめさせるなんてことはしなかった。
マザー・テレサはインドで受け入れられた。1997年に彼女が亡くなったとき、彼女は大葬儀が行われた。この神聖な女性は、全ての人種と全ての国の人々に対しての愛と慈悲の力で満ちていた。
そのため、1979年にマザー・テレサにノーベル平和賞が与えられたのは不思議ではなかった。
そのときの言葉の一部がこれだ:
先日、私は20年間仰向けになったままで彼の動かせる部位じゃ右手だけと言う男性に15ドルを受け取りました。
彼の楽しめる仲間はタバコだけでした。そして彼は私に言いました。「一週間タバコを吸わなかったんです。そのお金をあなたに送ります。」
これは彼にとって非常に犠牲的なものに違いなかったでしょうが、そればいかに美しいか、いかに協調的かを垣間見ました。
そしてそのお金でパンを買い、お腹をすかせた人たちに与えました。
両者共に喜びに満ちて、彼は渡し、貧困者は受け取ったのです。
私でもあなたでもできることです。
他の人たちと愛を共有できることは神からの贈り物なのです。