PROGRESS21 BOOK4 LESSON9 READ 和訳

OBSERVE CAREFULLY!

有名な生物学者が化学の授業で講義をしていた。
「私がいうことに注意して聞きなさい」とその教授は言った。

「君たちの中で2/3以上は将来は科学者になりたいと書いた。この専門に君たちが興味をもってくれて嬉しいよ。医者も技術者も宇宙飛行士もみんな科学者だ。これらの科学のうちなんらかを発展させるための方法を君たちに説明させてもらおう」

 

「二つのことが不可欠だ。まず、入念に観察しなければならず、二つ目に、喜ばしくない物の嫌な感情を克服しなければならない。例えば生物学での実験において、しばしば嫌な臭い、音、味を我慢しなければならない。今日、私たちの最初の授業で、私はこれらの不可欠なルール二つを君たちに学んでほしい。」

 

その教授は50x30cmの大きな鉢を机の上に置いた。それはフライパンほどの深さがあるように見える。

そしてなんらかの液体の2Lボトルを取り出し、彼は鉢にそれを1L注いだ。

「汚い食事の洗い水だ」彼は言った。

そして最初のと同じ大きさで焦げ茶色の液体が満たされたもう一つのボトルを取り出し、彼はその半分も鉢に注ぎ、中身を混ぜた。

 

「そして」彼は言った「私がすることを注意深く観察しなさい、そうすればあなたは全く同じことする。心配しないように。」かれは少し笑って付け加えた。「これは毒ではないよ。」

 

そして、指を汚い混合物に指を入れた教授は、一度かき混ぜ、そして自分の指を口の中にいれた。かれは嫌な顔ひとつしなかった。「さあ、学生さん」彼は言った「あなた達の番だ。同じことをしなさい。」

 

彼らは前にあるそれのそばまでやってきて、その汚い混合物に指を浸して、一度かき混ぜ、指を自分の口の中に入れた。

それは悪臭がして最悪の味がするものの、そのうちの何人かは嫌なそぶりもせずになんとかやったが、ほとんどの学生が少しためらった。

 

全員が席に戻った時、教授は言った。「おめでとう。不可欠なことの一つを君たちは習得した。君たちはこの混合物の酷い臭いと味に対する嫌悪感を克服したのだ。しかし、二つの不可欠なことのより重要な方をまだ習得していない。君たちの観察力は弱い。私のことをもっと注意深く観察するべきだった。実際、私はこの汚い茶色い混合物に指を入れ、別の指を自分の口にいれたのだよ。」

MARIE CURIE, DISCOVERER OF RADIUM

私の生涯の中で、自然の新しい発見は私に子供のような喜びを与えてくれる。

 

この引用はもっとも有名な科学の女性から出たものである。

彼女の名前はマリー・キュリーといい、彼女は大いなる科学的発見の時代である20世紀初頭に生きてきた。

 

マリー・キュリーは1867年、ポーランドのマリア・スクウォドフスカに生まれた。

その時代、ポーランドは独立国家ではなく、その文化と言語は抑圧されてきた。

教師であったマリーの父は多くのお金を稼ぐことはなく、気づけば生活するのに困窮していた。

 

マリーは特に数学と科学を学び、実験室での実験をしたがった。

不幸なことにその時代にポーランド人は実験科学を研究することが許されていなかった。

17歳になったとき、マリーは仕事に出て、いつか大学にいけるようになるためにできる限りお金を貯めた。最終的に、彼女は有名なパリのソルボンヌ大学に入学する十分なお金を手に入れた。

彼女は1891年にそこに引っ越した。彼女は小さなアパートに住み、時にはなんとか食べ物を買うに足るお金しかなかった。

彼女は懸命に学び、物理と数学は優秀な成績で卒業した。

 

卒業後、マリーは研究を続けられる方法に悩んだ。彼女は科学で最も高い学位であるPh.Dをとりたかったが、その時代にそのような学位をとる女性などそれまでいなかった。

教えることと学ぶことを続け、産業研究における大学の仕事を手に入れた。

そこで彼女は研究室管理者のピエール・キュリーに出会った。彼らは共通点も多く、恋に落ちた。彼らは1895年の7月に結婚した。

 

キュリー夫妻は研究の妨げになるであるものはなんであれ断るような控えめな人物だった。

彼らが何より求めたのは、実験を続けるために必要な基金と施設だった。(彼らは本当は適切な実験室を持っていなかった。)

彼らは共に、非常に強力だが危険であるウランによって放出される放射線を発見した。

 

ピエールによって発明された機械で、彼らは放射線の強さを計測した。マリーはこれらの放出を「放射能」と呼んだ。

 

実験の一つをしている間、マリーはウラン鉱石によって放出される放射線が予想以上に強いことに気づいた。さらなる実験で元の結果を確かめた。

マリーは、ウランよりも放射能の強いほとんど見えない新しい元素があることを結論づけた。

彼らはマリーの祖国に倣い、新しい要素を「ポロニウム」と呼んだ。

そして、数ヶ月後、彼らが「ラジウム」と呼んだ他の元素を世界に報告した。

この結果、彼らは1903年にノーベル物理学賞を受賞した。

 

マリーとピエールは夜遅くに研究室に入ったとき、緑色の光でラジウムは部屋を光輝き部屋を照らしていた。実際、この魅力的な元素について誰も理解していなかった。

しかし、骨のX線画像をとるときに使えることに彼らはすぐに気づいた。

彼らはがん細胞を殺すのに使えることも見つけた。これも大きな発見だった。

 

不幸なことに、これらの実験はマリーもピエールのどちらの健康にも被害を与えたのだが。

マリーの指はひどく損傷し、ピエールは体に鋭い痛みを感じ始めた。

しばしば彼は夜に眠れなかった。しかしどちらも、特にマリーは、健康被害の危険性を度外視した化学実験に焦点を当てた。

 

1906年悲劇的にも、ピエール・キュリーは道路を横断している間、交通事故によって亡くなった。

悲しみにも関わらず、子供の世話をしている間もマリーは仕事を続けた。

彼女はソルボンヌでピエールの講師の地位を継いだ。そして1911年、彼女は今回は化学賞で再びノーベル賞を受賞した。

彼女はソルボンヌで初めての女性の教授であり、女性で初めてノーベル賞を受賞し、ノーベル賞を二つ受賞した初めての人とだった。

 

マリーは世界中を旅して自分たちの研究に継いて話し、さらなる研究の基金を求めた。

アルバート・アインシュタイン含め、その時の偉大な科学者に会い、彼女はしばしばグループで唯一の女性となった。

悲しいことに、長年のラジウムの研究による代償は大きかった。

彼女は1934年に白血病で亡くなった。

 

ここが精進することなくより良い世界を作ることは叶いません。

マリー・キュリーはかつて言った。

その目的のために、我々一人一人が自身の成長のために働くと同時に、全人類のために普遍的責務を共有しなければならない。

とりわけ私たちの義務は最も役立ちうると私たちが思う人に援助をしなければならない。