NELSON MANDELA, HERO AND PRESIDENT
犯罪によってではなく、人間の尊厳に置ける信条によって監獄に入れられることを想像してみよう。
恐らくそこで残りの人生全てをそこで過ごすと知ることを想像しよう。
あなたはどのように反応するだろうか?
恐らく多くの人は怒り悲しみに打ちひしがれるだろう。
再び自由になるなるための基本的信条を捨てる人もいるかもしれない。
しかし、自分の基本的信条を捨てることを拒むだけでなく、どのように許し、過去に背を向け前に動き出すことを学ぶことさえする人がいる。
そんな人の一人が、種隔離政策という南アフリカの公式方針の計画的な不正義に対する闘争で英雄的リーダーだったネルソン・マンデラだ。
この政策はほぼ20世紀末期まで続いた。
白人支配者達は黒人アフリカ人に、特定の地域に住んだり、適切な教育や良い仕事を得たり、自らの国の指導者になることさえ許さなかった。
27年の長き年月を監獄で過ごしたネルソン・マンデラは、その後に共和国全国民に選ばれ、南アフリカ初の黒人大統領となった。
ホリシャシャ・マンデラは1918年に7月18日に生まれた。
実はホリシャシャという名前は「問題児」を意味したのだが、この時代、恐らくイギリスの植民者がアフリカ人の名前は発音しにくいためかアフリカ人の子供には英語の名前を与える風習があった。
そのため、学校で初日に彼はネルソンという名が与えられた。
理由は定かではないが、この名は彼について回った。
大学時代に彼は大学の方針にボイコットを起こしたため追放され、政略結婚から逃れるためにヨハネスブルグに逃亡した。
そこで彼は、隔離政策に反対するために平和的手段を用いる機関、アフリカ民族会議(ANC)に参加することで隔離政策に対する運動に参加し始めた。
しかし、政府は黒人たちの議論に加わることを拒否した。 1960年、不義の政府方針に反対する多くの非武装民が殺され、ANCのような反政府組織は違法化された。
マンデラとその配下たちは、人ではなく建物への攻撃に限定した暴力を行使し始めるしかない決意した。
結局マンデラは他の指導者と共に逮捕された。 死刑を下される可能性に直面しながらも、マンデラはこの勇気ある言葉で責任を取った。
私は白人居住区に対して戦い、黒人居住区に対して戦った。 私は民主主義の理想を、そして全ての人々が調和して共に暮らし平等な機会のある自由社会を大切にしてきた。 マンデラと彼の仲間は死刑ではなく終身刑を言い渡された。 何回も、マンデラが出て行って故郷で静かに暮らすなら、もしくは彼が暴力を放棄するならと釈然を提案されたが、彼は全ての南アフリカ人が自由になるまで自分は自由になれないと言い拒否した。 1989年、F.D.ドュ・クラークという名の新しい大統領は、隔離政策の方針は南アフリカを亡国に追いやると理解し、1990年彼はマンデラを解放し、ANCとその他機関も合法化した。 4年の準備の後、南アフリカは最終的に最初の民主的選挙を開いた。 マンデラは全て人種と政治的信条を含む政府の大統領となった。 かつては彼を憎んだ多くの白人たちも彼を尊敬し賞賛するようになった。 1993年、マンデラとデュ・クラークは二人でノーベル平和賞を受賞した。
1999年に彼は政治から退任したが、2013年に95歳で死ぬまで自身の国や世界中の国の平和と社会的正義を促進し続けた。
NELSON MANDELA, HERO AND PRESIDENT
もしあなたが誰かを誉めたいなら、人格者と言うしかない。
人格者は自身の意志の強さと心の大きさと調和する。 人格者は信頼でき、反対にもかかわらず自分の信条に生きる。
それにもかかわらず、彼らは弱みや不幸を哀れみに同情もする。
アブラハム・リンカーンがその人格者だった。
ちょうど激しい嵐を前に折れるのを拒むオークの木のように、リンカーンは多くの信条を非難されたにも関わらず力強く耐えたのだった。
彼が猛反対にもかかわらず黒人奴隷への同情に駆り立てられ自由を宣言したとき、彼は言った。「奴隷への自由を与えるに際し、自由な者に自由を保証しよう。」
言い換えれば、たとえ一人でも奴隷であるなら、誰の自由も保証されないのである。
批判されたとき、彼はただこう言った。「私が原因であることの批判全て答えようとしたら、他に何もする時間がなくなってしまう。私は出来る最善をし、とことんそれをやり続けるつもりだ。」
リンカーンは堂々とまっすぐ立っていたため、彼の断固とした性格を表してると言える。
一方で、彼の顔の彫りの深さと柔らかく寂しげな目は彼の同情の心を表しているように見える。
その同情は多くの場面で明らかになる。
一場面を挙げると、任務中に居眠りをして死刑宣告された若き兵士に恩赦した。彼は言った「私の手で哀れな若者を葬り去るなど考えられない。少年は農家で育ち、恐らく暗くなったら寝ていたために、任務中の夜に寝てしまったに違いない。彼は恩赦されるべきだ。」
慈悲の行動が恩赦された若者へいかように影響したかは以下の事実からも見て取れるだろう。
のちに彼が戦場で自らの命を犠牲にしたとき、彼の胸ポケットから大統領の写真が見つかった。
その写真の裏にはこう書いてあった。「リンカーン大統領に神のご加護があることを願わん。」
1864年にリンカーンが二回目の大統領に選出されたとき、凄惨な南北戦争いまだ続いていた。戦争の窮状にもかかわらず、この時のリンカーンの演説には以下の挑戦的な言葉を含んでいた。
THE GETTYSBURG ADDRESS
1863年、ペンシルベニア州の小さな村であるゲッティーバーグで、凄惨な南北戦争の激戦の一つが繰り広げられていた。
敗北したのは南側で圧倒的だったが、両者甚大な損害を被った。
翌年の11月にその戦場が軍人墓地として捧げられる運びとなった。
この墓地としての利用に際して、リンカーン大統領は「二言三言お願いします」と求められた。この「二言三言」は歴史的に偉大なスピーチの一つとなった。
そのスピーチの最も有名な言葉は「人の、人による、人のための政府」と言って間違いないだろう。
この言葉は民主主義の完璧な定義と呼べる。
87年前に私たちの祖先たちはこの大陸に、新しい国を建国した。その国は、自由の理念を尊び、全ての人は平等に創られているという命題を遵法していた。
今、私たちは大きな内戦の最中にある。この内戦は、かの国が、あるいはそのような理念され遵法された国が、如何に長く持ちこたえられるものかどうかを試している。
私たちは、その戦争の大戦闘の最中で会している。
私たちがやってきたのは、その国を生き延びさせねばならないとの信念で生命を犠牲にした人々に対して、私たちも又最後の安息の地として戦場を共にするためである。
私たちがかく為すべきであるということは、全く時宜にかなっており正義である。
しかし、より広い意味でいえば、私たちはこの大地に捧げることも、神聖化することも、清めることもできない。
ここで奮闘した勇者たちが、生ける者も死せる者も、この地を神聖化してしまっており、我々の貧弱な能力をもってしてはもはや何かを付け加えたり取り除いたりすることなどできやしない。
世界は、私たちがここで言うことなどほとんど気に留めないだろうし、それを長く記憶にとどめることもないだろう。しかし、彼らがここで為したことを決して忘れることができない。
私たち生きる者の使命とはむしろ、ここで戦った人々がこれまで気高く前進させた未完の仕事に身を捧げるべきであるということか。
ここにいる我々の使命とはむしろ、私たちの前に残されている偉大な任務に専念することである。この名誉ある死者たちから一層の熱意を汲み取り、彼らが最後の完全な献身策を捧げた主義に対し、我々が更に身を捧げるべきであるということか。
その任務とは、あの死者たちの死を無駄にはしないこと、この国が神のもとで自由の新たな誕生を生み出すこと、人の、人による、人のための政府を、この地上から消え去さらせはしない、と深く決意することである。